鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

過去の「好き」の行方

たまに、漠然と悲しくなることがある。
嘘だ、本当は漠然となんかじゃない。理由はちゃんと分かってる。自分の中の「ぽっかり」穴が空いた場所を覗き込む。


何かを「失った」と感じて悲しくなったり寂しくなったりすることは、そこに「何かがあった」からに違いない。その「何かがあった」ことは私にとってはとても大事で、その「何かがあった」という事実を私は大切にしたいけれど、でも大切にしたいと思うばっかりに、誰とも共有できない悲しみや寂しさに、時々一人取り残されそうになる。


大切にしたい「過去」があった。その「過去」は私にとって本当にかけがえのない時間で、その時間があったからこそ今の自分があるのだとはっきりと思える。でももうその時間はどんなに取り戻したくても戻ってこないし、今後の人生の中で、どんな時間とも替えがきかない。でも人生なんてそんなことの繰り返しのような気もする。


まだあまり、「過去」に対して自分の中での折り合いのつけ方が分かっていないのかもしれない。こんな気持ちになって半年以上が経つというのに、今だに「何か」に対する感情を完全に持て余している。


馬鹿馬鹿しいと思うかな。いっそのこと、そんな「過去」なんてさっさと捨てることができたらどれほど楽で簡単か。でも、私にとってその「過去」は軽く捨てられるほど簡単でも楽でもない日々だった。そんな簡単に捨ててたまるもんか。でもだからこそ、こんなに苦しいんだろうな。


吹っ切れたと思ったのに、また吹っ切れたその足元に新たな苦しさを見つけては藻搔く。この件に関しては同じことの繰り返しだ。


もう「過去」とは関係ない、新たに自分が前を向きたいと思える方向も見つけているのだから、さっさとそっちの方だけ向いておけばいいのにと自分でも思う。でも、たまにこうやって「過去」に足を取られそうになる。「過去」に足を取られてこんな風に一人苦しむくらいなら、自分が前を向きたい方向を既に見つけているのなら、その方向だけ向いて進んでしまった方がよっぽど賢く、利口な生き方なのかもしれないのに。どうしてなんだろうな。人間の心は難しい。


悲しみや寂しさに囚われすぎてはいけないと思う。でもそれを無かったことにすることも違う気がする。もしかしたら、こうやって過去に足を取られそうになる瞬間も、いつかのこれからの自分のために必要な時間なのかもしれない。焦る必要は別にない。

きっと、いつかは(そのいつか、がいつ来るのかは分からないが)この気持ちにも折り合いがつけられる日が来るのだろう。何かを「失った」(と感じる)経験はこれまでもしてきた。その時だってずっと、こうしてきたのだから。


そうやって遠回りしながら、「いつかその時」が来た時には、過去を思い出して笑えるようになっていればいいと、今はそう思う。

Koukasen

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