鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

夏と「さよなら」と記憶の話

最近、1年前の今頃のことをよく思い出す。それは多分、今が夏だから。


夏の暑さに当てられて思い出す。あのうだるように暑かった季節を、かつての推しとともに駆け抜けた最期の時間を、私の体の中の細胞が、あの時のことを今でも記憶しているような、そんな気がする。


「当時の自分」が幸せだったかどうかというのは、よくわからない。ただ、とにかく必死だった。ただ繰り返す、一日一日とこぼれ落ちていく毎日から、どうにか推しと過ごせる残り少ない""今この瞬間""を取りこぼすまいと必死だった。
必死すぎて、文字にするとなんだかあまり幸せそうな感じじゃない気もする。でも1年経った今だからこそ思う。あの何度も何度も何度も泣いて、死ぬほど苦しんで、でもそれでもしがみついて手放さなかったあの日々も、そのかけがえのない時間を過ごせたことそれ自体が、確かに間違いなく、幸せだった。


あの2022年の夏の記憶があまりに私の中に鮮烈に残りすぎて、夏は私の中で、春よりも強い「さよならの季節」になった。


さよならは、さみしい。さみしいしつらいし、なんだか心のどこかがぽっかり空いたような気持ちになる。だけど、その「さよなら」からしか得られないものをあの夏に知ってしまったような気もする。それは、ちょっとした呪いみたいなもんかもしれない。
まあだとしても、それはそれで悪くない気もする。呪いだとしたら、あの夏のことを、多分私はずっと忘れないと思うから。


2022年の夏は私にとっての強い別れの季節として記憶に焼き付けられたが、どうやら2023年の夏もそうなるらしい。


2023年の1月から足繁く通い続けていた映画「THE FIRST SLAM DUNK」が、8/31に終映することが決まった。
他人にとってはたかが映画、自分にとってはされど映画。この映画で多分、私は私が思っているよりもずっといろんな場面で救われたし、多分人生のそばに在り続けることになりそうな作品と出会うことができたのだ。ファン歴をどうこう言うのはあまり好きではないが、それでもこの作品と出会って半年ちょっとの私にとっても、大事な大事な映画になった。

そんな映画が終わる。あぁまた「さよなら」か、公式からのアナウンスが入った時にはそう思った。
しかし、原作の最終話が8/31であることを考えると、これほど相応しい終映日が他にあるとも考えつかない。その美しすぎる最後に、さよならなのに好きになるしか選択肢がなくて、勘弁してくれよと思った。「最後の美しさ」にちょっとだけ、かつての推しのラストライブで観たあの光景の美しさを思い出してしまって、何も言えなくなった。

さよならを異常に嫌がるくせに、さよならで余計に好きになってしまう。勘弁してくれよと思う。


上映終了から残り1ヶ月を切った今、去年の夏と同じように、今度はTHE FIRST SLAM DUNKとももに、「今この瞬間」を刻み込むように生きている。今年の夏は、もうこの先二度とやってはこないから。この先には「さよなら」が待っているけれど、でも""あの時""と同じように走り切るだけだと、今はそう決めた。





あぁ、あと、この夏はそれとは別の「さよなら」も体験"してしまった"。


急に話のタッチが変わってしまうが、
ついこの間、職場の人が自殺した。


いつも穏やかで優しく、仕事をしながらせこせこと職場をうろつく私に「よう働くなぁ!」と声を掛けてくれる人だった。私から見れば、その人の方が私よりもずっとずっと働いていたのに。
あまりにも休んでるところを見たことがないもんだから、いつだったかに「休んでますか、マジでちゃんと休んでくださいね」と声を掛けたことがある。それを聞くと、笑いながら「働きすぎていつかポックリ逝くかもなあ!」と今となってはあんまり笑えないジョークも言っていた。


6月の中頃にタイミングがあり、偶然二人だけで立ち話をしたことがある。その時に、実はもうすぐ退職するのだとこっそり教えてくれていた。これまでずっと海外で暮らしていたこと。最近になって地元に帰ってきたけど、田舎に残した高齢のご両親の弱った様子に心を痛めて、これからはもう少しそばにいてやりたいと思ったこと。そのために退職の道を選択したこと。
しかしその少し後に、会社と労働条件などについて話をして、やっぱり会社に残ることになったと話していたこと。


当たり前だが、直接的な理由は何も知らない。


これまでふたつのさよならの話をしてきたが、でもこういうさよならは、あんまり経験したくないな。


この話の中でひとつだけ、後悔したことがある。
この方が、何度かご実家で採れたスイカを差し入れに持って来てくれていたのだが、そのお礼を私は言いそびれてしまったのだ。とんだ馬鹿野郎である。「今度会った時に絶対言おう」の「絶対」が、もう二度とやって来なくなってしまった。
これからの私は、この後悔を、指先にできたちょっと大きめのささくれみたいに、ちょっとだけ気にしたり気にしなかったりしながら、たまに思い出すのかもしれない。


でも、こうして文字にしたのは結局私が「それを忘れたくなかった」からなのだ。
記憶は思い出されるたびに、脳の中で「更新」されていく。「事実のそのままの通りに思い出す」ということは人間には到底無理で、「思い出す」という行為のたびに多少のノイズが入りながらも、でもそうやって細胞の記憶は更新されていくものなのかもしれない。


あの人の顔も、声も、今でも覚えている。少なからず私は、あの人のことがけっこう、好きだった。
「よう働くなぁ!」と声を掛けてくれたあの人がよく立っていた持ち場のそばを通り過ぎるたびに、毎日ちょっとだけ、あの人のことを思い出す。もしかしたらこれもほんのちょっとした呪いみたいなもんかもしれないが、でもこれはこれで、悪くない気もする。


ほんとうに悲しいことは、こういった些細なひとつひとつを、ベッドの下で埃を被ったおもちゃみたいに、長い間思い出せなくなってしまうことだ。そしてそういうものほど、急なタイミングで思い出してしまうものだ。そして探してみたはいいものの、たいてい全く見つからないみたいなことになりがちだ。
そういうのは、さよならしてしまうことよりも、後悔してしまうことよりも、多分もっともっとかなしい。


このブログは、記憶装置だ。部屋のコルクボードに貼られた、いつか思い出すかもしれない大事なおもちゃの片付け場所を記したメモ用紙みたいなものだ。まあ、それでもいい。まとまりなんてあってないようなものだし、今は別に、それで構わない。


POWER OF WISH

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