鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

涙の隣にはせめてやさしさを


世の中、理解できないことばっかりだ。



昨日の夜、生配信で自分のこころの限界を痛々しい様子で話していたアーティストの彼の、そこまで彼が追い込まれてしまったその本当の理由も、
今日職場で泣いていた同級生の女の子の、その明確な涙の理由も、
私が今右手でこれを打ちながら、空いた左手で撫でられているねこが喉を鳴らしながら何を思っているのかも。





他人のことは理解できない。

理解したと思っても、それは「自分の中の尺度」で「そう『理解した』と思った」だけであって、相手が本当に思っていることとは間違いなくズレが生じている。
悲しいことに、どれだけ他人のことを理解しようと思ったところで私は他人にはなれないし、だから常に、他者と自分の間にはどうしようもないほどの断絶が存在している。



そして、それを本気で悲しいと思う時期が私にもあった。今思えば恥ずかしいくらいに若いなあと思うが、多分あの時は本気で、その「他人のことは理解できない」という事実がさみしくて、悲しかった。





人が泣いたり傷ついたりしていることを、昨日の夜からよく見ている気がする。

人が傷つかない世界、そんなものは無理だと分かっているし、上から目線で「傷つかなくていい」と言うことのおこがましさや勘違いの甚だしさも感じているし、そも彼や彼女の問題と無関係の私がそれを思うこと自体がとんだ間違いだというのも分かっている。所詮、今の自分に心の余裕があるからこそそう思えていることも理解している。
が、でもそれを全部分かった上で「彼や彼女も、みんなみんな、少しでも傷つかなかったらいいな」と思っている。



何も「世界中の悲しみ」をとかそんなことを考えてるわけじゃないし、考えるつもりだって毛頭ない。その辺は薄情かもしれないなと思いつつ、でも自分の目に入る範囲だけでいい、自分の手の届く範囲だけでいい、悲しんでる人や、傷ついている人がいたら、その全てを理解はできなくても、ちょっとだけそばに居たり、寄り添いたいなと思うのは間違っているのだろうか。
まあ、実際に寄り添えるかどうかは別として。






多分きっと、「他人のことは理解できないけど、でも理解できなくても、一緒にいたり寄りそうことはできるじゃん」が私のスタンスで、自分自身がそうありたいんだろうなぁ、と今日ぼんやり思った。


他人が泣いたり傷ついてることに対してこちらは目一杯平気なフリをしながら、素知らぬ顔で「一人じゃねーからよ」ができたらそれがラッキーだし、それで相手が笑ってくれれば最高だ。




別に、自分のことを「優しい人間」だとは思わない。でも泣いている人がいれば、その人の迷惑にならなければ、迷惑にならない範囲で、優しくしたいじゃん。
なんつーの、人情ってやつ?


今日、職場で泣いていた彼女に素知らぬ顔で差し入れをした後、(弱ってる時に優しくされるのが弱いらしい)彼女が別の意味で泣きながら私に肩パンを食らわせてきたのを思うと、まあ、悪くなかったんだろう。


まあ今日は、そんな感じで。

CHANT #1

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