鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

また私は同じことを繰り返す

今週のお題「最近飲んでいるもの」




最近、頭の中から音楽が消えていた。
そのことに気付いたのはつい数日前で、それに気づいた瞬間「あーいつものね」と勝手に一人で納得する。




生きていると嫌なこともまあそりゃある。
一週間ほど前に、職場で他人に言われた一言がずっと自分に刺さって抜けない。いつものように目一杯平気なフリ的な感じでヘラヘラしとけばよかったのかな。いや、多分違うと思う。でもだからといって「あいつぜってえぶっ飛ばす、ぜってえ死んでも許さん」と行儀の悪い自分を内側に秘めながら、でもそれを相手に直接ぶつける度胸もないまま情けない自分が胸の中で暴れたとて、結局その振り回した自分の言葉で自分が傷付くだけなのだ。あーやんなっちゃうな。本当に最低だ。
そうやって頭でいろんなことをぐるぐると考えるから頭の中から音楽が消えていくのだと思う。多分。




こんな時、好きなあのバンドマンのようにギターを鳴らして歌でも歌えたらよかったのかもしれないな。しかし生憎、大学生の頃にギターを早々に挫折した自分にはそんなことができるはずもない。




最近また短歌を詠んでいるけれど、別に私は言葉を上手に使えるわけでもない。
大学生の時に短歌の講義を取っていた。いつかの講義の後、短歌の先生からこっそり受けた歌会の勧誘を蹴ってなかったら今よりもう少し言葉も上手に使えたのだろうか。ダサいなぁ、そんなクソみたいなたらればなんて捨てちまえよ。そんなこと、今更考えたってどうしようもないのに。




だんだん全部どうでもよくなって、全部ぶっ飛ばして、全部捨てたくなる。本当は全部どうでもよくなくて、全部抱きしめて、全部大切にしたいだけなのに。




今日も音楽が鳴らなくなった頭でとりあえずコーヒーを淹れた。ギターだって挫折した、言葉だってロクに使えない、コーヒーは、そんな私が多分唯一続いている生産性のあることだと思う(いや、とはいえコーヒーだってしばらく淹れられない期間があったのだけど)(まあそれは別の話だ)。



私はコーヒーのことを勝手に「人の孤独に寄り添う飲み物」だと思っている。音楽でさえも自分を救えなくなった時に、とりあえずケトルを持って手を回せば、なんとかなる気がする。いや、仮になんともならなくたって、少なくとも手元に一杯のコーヒーが残る。
どうしようもなくなっても、一杯のコーヒーだけでも自分の手で生み出せれば、多分それは自分にとってのちょっとした希望だ。ギリギリのところで「ああまだ自分は自分のことを手放してないのだ」と、そう思えたら少しだけ安心する気がする。



別にコーヒーは私の中の何かを救ってはくれない。何も言わず、ただそこに在るだけだ。でもただそこに"在る"という事実でこちらが勝手に救われることは、わりとある。



力の入らない目で真っ黒い液体を見つめてはずるずる啜って、友人から貰ったクッキーを食べた。
しばらくそんな風に適当に過ごしていたら頭の中で音楽が鳴った。



まあ大体いつもこんなもん。大体いつも同じことを繰り返しながら生きているような気がする。生きるパターンが無駄に定まってきたから、私という人間はこういう攻略法でいいんだろう。
またそのうち頭の中から音楽が消えても、こうやってまた取り戻すんだろうから、まあ大丈夫だよ。




幸福のしっぽ

幸福のしっぽ