鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

私は彼のことを何も知らない

新しい職場で仕事を始めてから、今日でちょうど丸3ヶ月になる。幸い、新しい職場は自分にとってとても恵まれている環境といえ、毎日楽しく働くことができている。
まあ、もちろん恵まれているとはいえ100%パーフェクト!なわけではないが、まあそれはどんな職場だってそうなんだろうと思う。


そんな中、先日上司とこんな話になった。
最近ストレスからとある病気(?)に罹りかけた上司が、医者から「まずはアルコールをやめて、毎日ポジティブに明るく生きなさい」とアドバイスを受けたらしい。それで症状が軽くなるならとポジティブ思考をここ数日続けてみたところ、「その症状や体のしんどさが、ネガティブだった今までとは全然違う」と言うのだ。
私からすれば「自覚があるほどネガティブだった人が、意識ひとつであっという間に気持ちをポジティブ切り替えられていること自体がすごいなぁ」と思うのだが。

その中で「鯛さんはいつも明るくてポジティブじゃないですか?なんかいいですよねえ!」と言われたのだ。
ふむ。ポジティブ。ポジティブ?なるほど。
とりあえず「そうかもしれませんねえアッハッハッハ」と答えといた。多分、こういうところが「明るくポジティブ」と思われている理由なんだろうと思うが。


私は、自分自身がポジティブかネガティブか……或いは明るいか暗いかは、あまりよく分かってない。
恐らく、ポジティブな面もあればネガティブな面もあるだろうし、明るい面もあれば暗い面もある。ただ、それが今の職場ではポジティブで明るい面がよく出がちである、というだけな気もする。


目の前にいる相手の持つ顔は、その環境で表出される一側面にしか過ぎない。その一側面がその人の全てを表すわけではない。

が、同じように、その人が自分の目の前で出す顔も、その人自身を構成している"一側面"のうちのひとつであることも間違いない。


なので、私は上司の話を「この人からはそんな風に見えてるんだなあ」と思いながら聞いた。他人から見た自分の印象は参考になる。なんの参考かは知らないが。




そしてこういう話を考えるたびに、脳裏にとある顔が浮かぶ。




宮城リョータ
現在の自分の"推し"である。



彼の過去は、THE FIRST SLAM DUNKで初めて明かされた。


(彼の過去がどこまで連載当時から構想されていたものだったのか、そしてストーリーの構成上、構想はあっても描ききれなかった可能性もある、ということはひとまず置いておくとして、)
原作の中での彼は、映画で明かされたようなバックボーンを持つとは到底思えない、「明るくて飄々としていて、好きな女の子にぞっこんで、勉強はあまり得意ではないけど、バスケに関しては頭の切れる、気のいい兄ちゃん」として描かれる。


私は映画から入ったファンだが、そんな自分でも原作での彼の描かれ方があのような形だった分、映画の中で描かれる、彼の抱えている(あるいは、抱えていた)ものの重さに、大きな衝撃を受けた。

それってつまり、私ですらそうだったのだから、原作やTVアニメから長いことファンだった人にとっては「それまでイメージしていた"宮城リョータ像"が根底から覆る」ぐらいの、相当な衝撃だったのではないかと思うのだ。



でも、私は「そういうのって、なんか現実と変わらないじゃん」とも思う。



誰にだって、大なり小なり誰にも言わない、自分の中にだけ秘めた思いや気持ちとか、そういうものがあるもんだと思う。
それは他人に言いづらい過去であったり、他人に見せたくもないようなドロドロとした感情だったり、宝物のように秘めておきたい、大切な気持ちだったり、それ以外にもきっと人それぞれ、いろんな"内側に秘めているもの"があるのだろう。


そういった秘められた思いや気持ちは、本人から他人に直接伝えられない限り、およそ伺い知ることは難しい。


宮城リョータの場合、それがただ「彼が偶然、現実には存在しない漫画のキャラクターだった」というだけの話だと、私は思っている。


(私だって、ブログだから今こうして心の内をゲロれてるけど、例えば少し前の記事のような"自分の過去を、全て包み隠さず直接他人に話す"となったら、かなり怯むもんな。第一、こうしてブログとして世間様の片隅で公開するに至るまででも、既に10年以上かかっている。)



まあ、私の話はそれとして。



少しだけ話が逸れるが、私はスラムダンクの「フィクションでありながらも、"現実と何も変わらない"」ところにとても惹かれている。

漫画や映画で表現される、生々しいほどの試合の臨場感も、
その中で生きるキャラクター達の心の機微も、

メタ的な話になるが、井上雄彦監督先生が、映画のアフレコで声優の皆さんに「所謂アニメーションではなく、ナチュラルな"素"に近づけたものにしたい。できるだけ"お芝居"をしないでください」と仰っていたところも。


(最後のやつは井上雄彦先生のことがいかに好きかみたいな話になっている。井上雄彦先生、好きです)(急な告白)



話を元に戻すが、宮城リョータが作中の登場人物に対して、あるいは「読者」や「視聴者」に伝わるかたちで、自分の心の内の一切を、これまで本当に""誰にも明かしてこなかった""(あるいは、作中で描かれなかった)ことも、
それを「読者」あるいは「視聴者」である私たちが、彼の抱えているものの一切を、(映画を観るまで)本当に全て""なんにも知らなかった""ことも、
全部本当に、ただただ「現実と何も変わらない」のだ。


でももしかしたら、だからこそ私は彼のことが好きなのかもしれない。



私は、彼のことを何も知らない。



「どんなに頑張ったって人間は他人同士で、相手の全てを知ることはできない」というのは私の骨の髄まで染みついた考え方(あるいは認知の歪みかもしれない)である。

そしてそれをその存在をもって体現している彼に、多分私はちょっと安心している。(まあ、それと同じくらい、彼も母親とのアレコレで苦労したんだろうなあ、というところにもシンパシーは感じているが。)


宮城リョータは、見ていて自分の肌に合うなあと勝手に思う。


「私は彼のことを何も知らないなぁ」と思うと、なんだか少しだけホッとする。そう思えば思っただけ、これからも彼のことを好きでいられるような気がするのだ。

I don't know

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