鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

箇条書きの日記

・気持ちが落ち着く位置にある時とそうじゃない時がある。今は半分後者。どれだけ言葉を綴っても言葉が気持ちが追いつかないことは(私の場合)往々にしてある。言葉を尽くせば自分の気持ちが正しくまっすぐ表現できるわけでもないし、寧ろ言葉を尽くせば尽くすほど言葉と感情がどんどん剥離していくことは何度も体験している。なので今日は敢えて箇条書きでまとめてみる。



・今日もコーヒーを淹れた。コーヒーを淹れるという行為をすると、気持ちが「ちょうどいい落ち着く位置」に着地する感覚がある。ドリップ中に円を描くようにお湯を粉の上に落としていくことで、そのお湯とともに気持ちが真ん中どストレートにストンと「落ちる」感じがする。何をしても落ち着かなくても、コーヒーを淹れたら落ち着く。私はそれが好きだ。それがいい。



・数ヶ月前に貰ったまま放置していたコードを使って、Blueskyにアカウントを作った。Xの自我出しまくりアカウントは5年近く鍵垢運用をしていたため、長らく娑婆に出ていない人間がいきなりすっ裸で日の下に出てきた感じがして少しビビっている。その割にはELLEGARDENの韓国人ファンの方と早速交流を始めてしまっている。新鮮でとても楽しい。



・上記をきっかけに、元々漠然と考えていた多少なりとも外国の方と交流ができるツールとしての言語習得をしていた方がいい気持ちが強くなってきている。私の場合はさらにそれが仕事にも関係してくるので、尚更やっていた方がいいよな。まあそれはそう。


酒の話


身も蓋もないタイトルだがいきなり酒の話をする。


酒は好きだ。多分けっこう。
強い方だとも思う。自覚はそこまでないけど、父親をはじめとした周りの人に言われるから、多分そうなのだろう。


酒って不思議だよな。飲みすぎた日の翌日は「もう絶対にこんなになるまで酒は飲まん……」ぐらいに落ち込むのに、さらにその翌日になったら「仕事から帰ったらビール飲もうかなー」みたいな顔を当たり前のようにしてしまう。自分の学習能力のなさに愕然とする。


私は酒の中でも日本酒がかなり好きで、ぶっちゃけこれが一番自分の体に合っている感覚がある。翌日の二日酔いの残り具合とかが、他の横文字系のお酒とは完全に違うのだ。まあ究極、米の汁じゃん。日本酒。



のだが、最近はちょっと横文字のお酒でも好きなものが増えてきたので困ったなぁと思っている。



私は、バーに行ったら必ず頼む酒がある。ブラッディメアリーという、ウォッカをトマトジュースで割り、さらにタバスコとウスターソースと黒胡椒をぶっかけたカクテルだ。

もともと最初は「トマトジュースで割る酒ならほぼトマトジュースだしカロリーゼロ」というサンドウィッチマン的なアホのカロリーゼロ理論で飲み始めたのがブラッディメアリーだった。


しかし、今では初見のバーで特別何も言わずにこれを頼み、どんなブラッディメアリーが出てくるかでそのバーをジャッジするという、メチャクチャ嫌な客感しかない超勝手な基準を持つまでに至ってしまった。


私の住んでいる地域は全国的に言えばまあまあ田舎の部類に入るので、バーでブラッディメアリーを頼むとわりと高確率で「ウォッカのトマトジュース割り」が出てくる。うーん違う、違う、そうじゃない。


しかし、地元でたまに行くトルコ人のマスターが経営するバーでブラッディメアリーを頼んだ時に出てきたのが「ちゃんとタバスコとウスターソースと黒胡椒の入った」ブラッディメアリーで、それを飲んだ時から、もう私はブラッディメアリーにメロメロになってしまった。マジでブラッディメアリーしか勝たん。今何回ブラッディメアリーって言った?(5回)


そして以前、同じバーで「ちょっと辛めにして」と伝えてブラッディメアリーを頼んだところ、気が狂うほどタバスコと黒胡椒を効かせたブラッディメアリーが出てきてそれも超最高だった。「ちょっと」の度合いが「ちょっと」ではない。いやーこういうのでいいんだよ。




あとは、今まさに飲んでいる酒のトニックハイだ。
ウイスキートニックウォーターで割っただけのものなのに、なぜこんなにうまいのだろうか。

ハイボールだと甘みが足りない、でもコークハイやジンジャーハイだと甘すぎる。しかしその中間に絶妙に鎮座する程よい甘みが最高すぎて、トニックハイはマジで何杯でも飲める。ウイスキーの香りも最高だし。

ぶっちゃけ、ついさっき「冷蔵庫の中にある開栓済みのトニックウォーターを早く処理しないと、数日後には完全に炭酸が飛ぶ」という問題を解決するために作ったトニックハイがここまでうまかったのが完全に目から鱗だった。こうしてバーで絶対頼みたい酒が軽率に増えてしまった。




話は少し変わるが、自宅で音楽(ZAZEN BOYS)を聴きながら酒を飲んでベロンベロンになった時に、今思うとちょっとゾッとするくらい気持ち良くなった経験が一度だけある。

あ、嘘。酒を飲みながらNetflixで海外アニメ(ミッドナイトゴスペル)を観ていたら、ゾッとするぐらい完全にキマッてしまった経験もある。観ていたアニメがミッドナイトゴスペルなので余計に悪いところもあるが、アルコールと映像物はマジでやばい。飛ぶぞ。


そして今もちょっとだけ「やばいなー」と思いながら、音楽を聴いている。


酒と音楽、酒と映像物の組み合わせってやばいよなー。でも合法だから許してほしい。合法だから。


なんか酒の勢いに任せて朝になったら書いたことを後悔しそうなブログを書いてしまったけど、まあいいか。翌日の私は盛大に後悔してほしい。


HARD LIQUOR

HARD LIQUOR

自分の中にあるものを思い出す話

時々、「自分には何もない」という気持ちに漠然と襲われることがある。別に、実際本当に何も持っていないわけではないのだ。ただふとしたタイミングで、他人にあって自分にはないもの、自分の「足りない」部分にばかり目が行って、自分が持っているはずのもの、自分の足下にあるはずのものを見失ってしまう。


前兆は数日前からあったのだが、昨日の夜から本格的にまさにそういう状態だった。
ので、今日一日は休日を全部自分のケアに徹底することにした。



まずはまともに動けるようになるまで、気のすむまで寝た。起き上がったのは15時を過ぎていたかどうだったかぐらいの時間だったが、別にそれで構わなかった。



そのあとはひたすら手と体を動かした。余計なことを考えたところで何も始まらないから、まずは余計なことを考える隙を減らしていった。





最初にやったのは、電動コーヒーミルの清掃だ。
いつもより丁寧に本体を拭き、パーツを分解し、爪楊枝とハケを使って内部の細かい微粉を取り除いていく。


ちまちまとした作業を行いながら、ふと過去のことを思い出す。前の前の児童福祉の仕事で、何年も顔を合わせていた子どもたちのこと。名前を覚えている子覚えていない子、顔を覚えている子いない子はそれぞれいるが、それでも彼らは元気にしているだろうか、できれば少しでも楽しいことが多い日々をそれぞれが過ごしてくれていたらいいな、とぼんやり考える。


そういう過去の断片を思い出していく中で、「自分の手の中にあるもの」をひとつひとつ思い出していく。ほら、別に「自分には何もない」わけじゃない。少なくとも、彼らと過ごしたあの日々があったからこそ、今の自分がここに立てていると、私はそう本気で思っている。多分あの日々がなければ、今私はこの場所にはいない気がする。なんとなく。



そのあともひたすら手を動かした。
今度は綺麗になった電動ミルを使って豆を挽き、コーヒーを淹れた。
最初こそペーパードリップで淹れていたが、もうここ数年はずっとネルドリップ派だ。
コーヒー豆は、今日からしばらくは自分で焙煎した豆を使う。まだ味見をしていないから、飲むまで味が分からないのでドキドキする。


一番最初に自分で焙煎した豆は、コーヒーではなくただの「コーヒー色のお湯」だった。それから焙煎の回数を重ねていくうちに、だんだんと「コーヒーっぽい飲み物」の味に近づきつつある。そして今回はさらに今までで一番「コーヒーっぽい」味がして、少しほっとした。今回は、苦味の中に初めて「甘み」が感じられるような気がした。
そうした「これまでの体験」と「今回の体験」を通して、また小さな「自分の手の中にあるもの」を思い出していく。



そして夜。
19時から始まった音楽番組を眺めていたら、合間でふとWOWOWの CMが流れた。ELLEGARDENのサマーパーティーの特番CMだった。

そのCM映像で使われていたZOZOマリンスタジアムの公演は私が入った公演ではないのに、観た瞬間にぶわと肌が粟立った。CM楽曲として使われていた「Breathing」に思わず「うわ」と声が漏れる。

そうだ、私はあの場所に(厳密には私が行ったのは大阪公演だけれど)自分で行くという選択をして、エントリーして、当選して、自分で足を運んだのだ。彼らの立っている場所。そうだった、あれが、私が行くことを選んだ場所だ。



control-stick.hatenablog.com





そして一日の終わりに、少しだけランニングをした。今日はワイヤレスイヤホンでELLEGARDENの「Breathing」を聴きながら走った。


この曲は、「この先に何があるか分からなくても諦めず呼吸をし続けろ」と言う。
「元々持っていなかったものを捨てるのは悪くないぜ」と言う。


「Don't you worry」
心配しないでと、その言葉が強く背中を支える。


音楽と、自分の呼吸の音だけが聴こえた。
一歩一歩足を前に進めながら、まるで「自分が今ここにいる」ことを確かめるように走った。




「元々持っていなかったものを捨てるのは悪くないぜ」
あぁ、そうかもしれないな。





走り終わった後、それまで自分の中にもにゃもにゃと蔓延っていた「自分には何もない」という気持ちが、随分と薄くなっていた。


自分には何もないわけじゃない。
それを自分のやり方で思い出せただけで、今日は100点だ。


Breathing

Breathing

私と夜とコーヒーとCDの話(CDの話が8割)

6連勤が終わった。別にだからといって何があるわけでもないのだが、やはり長めの連勤明けの休みは嬉しい。そんなわけで、何故か一番疲れているはずの連勤終わりの夜に一番アクティブに夜を満喫している。



コーヒーを淹れた。それも2杯も。別にカフェインを摂ってもぐっすり眠れる体なので何杯飲もうが関係ないのだが、おやつに食べた玉川屋のバターどら焼きが美味しすぎてうっかりおかわりコーヒーをしてしまった。




そして敢えてCDで音楽を聴いている。この大サブスクリプション時代にCDを手にするということは、好きなアーティストのお布施だったりグッズとしての所有という側面が大きんだろうなぁ(まあ、私もそうだし)と思いながら、CDプレーヤーにディスクを挿入し、少し控えめにした音量で音楽をぼんやりと聴いている。




いま、海の向こうの若者たちの間では、サブスクリプションから時代がまた半周し、LPやCD回帰の動きが強くなってきているらしい。時代はこうやって何度も繰り返すのだろうなぁと思いながら、サブスクのその手軽さゆえに物質としての価値が下がってしまったCDに「音楽を所有する」という価値を改めて見出した海の向こうの若者たちはすてきだなぁ、と思ったりしている。



CD……もといアルバムをデータとしてではなく、そういう「作品」としてCDプレーヤーに挿入して聴く時、端末に取り込んだデータやサブスクリプションで聴く時とは違う手触りがあるような気がするのは、私の思い込みみたいなもんなのだろうか。


でも、シャッフル再生ができるわけでもないCDで、アーティストが考えて決めた曲順で一曲一曲聴くことや、曲と曲の合間の無音の数秒間へのこだわりとか……なんかそういう、ともすれば面倒くさいと言われかねない(まあ事実そう感じる人もいるのだろう)ひとつひとつを、「ひとつの作品」として、余すところなく全てを楽しめるのがCDな気もする。



今流しているアルバムを初めて聴いた時のことは、今でも鮮明に覚えている。発売日にCD屋に駆け込んで、年甲斐もなくワクワクしながら購入した。CDケースを覆った透明フィルムをぴりぴりと丁寧に破り、スピーカーの前でどきどきしながら、初めて触れるその音楽と一対一で向き合った。


そういう「このCDで聴いた思い出」みたいなものは、サブスクリプションでは存在しないかもしれないな。あくまで私は。
(追記:ごめん↑の発言嘘ついた。サブスクで聴いた中だと、tofubeatsの「REFLECTION」とthe HIATUSの「Our Secret Spot」だけはめちゃくちゃアルバムとしての思い出ありまくりでした。今度CD買います。)



そんな感じで文章を打ちながら、私は「このCDで聴いた思い出」を新しくアルバムに刻み込む。



思えば、私がもっとずっとガキの頃は、これが当たり前だったんだよな。
何がいいとか悪いではなく、形の無いものが持つスピード感や手軽さがスタンダードになった価値観の中で、物質の持つ面倒くささと面倒くさいからこそのいとおしさとか、そういうのに改めて気づけることも豊かさの一つだよなぁ、みたいなところでふんわりと話のオチとする。


満月の見下ろす秘密の夜にまた会おうぜ

夜が好きだ。夜が好きだという明確な自覚がいつ頃からあったのかというと、ぶっちゃけかなり最近かもしれない。でも昼より夜のほうが、今の私は多分ずっと好きだ。



私の勝手かつ個人的な印象だが、夜は優しいと思う。夜は、その暗闇の中に全部を隠してくれるような気がする。
もちろんぐっすり寝ててもいいし、眠れなくて起きててもいい。一人隠れてこっそり泣いてもいいし、誰かとこっそりクスクス笑いあってもいい。その全部を暗闇の中にすっぽり隠して「いいよ」と許してくれる、なんとなく夜は、そんな優しさがある気がする。



昼はなんか、「はい、明るくなったから起きなさいよー!はい動きなさいよー!」って言われてるような、なんだかその明るさに急かされているような気がして、「やかましい母ちゃんみたいでいやだな〜」と思いながら、私は休みの日に布団に入り込んでいたりする。
高校生の頃、学校に行かなきゃいけないのにメンタルがぐじゅぐじゅすぎていつまで経っても布団から這い出せなかった平日の昼間の空気とか、そういうのも本当に死ぬほど嫌いだったもんな。


まあとは言いつつ、昼は昼で好きなところはあるんだけども。






少し前の話をしよう。
前回の満月の夜の日の話だ。9/29だったかな。
この日は中秋の名月と満月がちょうどぶつかる日だったらしく、ピカピカに晴れた夜空に輝くドデカい満月におおすばらしい、と思いながら深夜に30分ほど近所を散歩したのだ。






その夜がとにかく、まっこと良かった。






その日は散歩のお供として、the HIATUSの「Our Secret Spot」を聴きながら歩いた。




the HIATUSは、私が音楽と少し距離ができるまではよく聴いていたバンドだった。もともと、細美武士のことも好きだったしね。


でも高校を卒業した後、私と音楽に少しだけ距離ができた。
それ以降にリリースされた、4thアルバム以降の彼らの歴史を、私はついこの間まで知らなかった。




自分が留守にしていた期間の、自分の知らなかった彼らの歴史を辿るように、4thアルバム以降の彼らの音楽を聴き始めたのが、ちょうど9月の終わりだった。





彼らの最新の(と言いながら、2019年リリースの)アルバムである「Our Secret Spot」を初めて聴いた時、「なんだか、月明かりの下でこっそりと秘密を明かすみたいなアルバムだな」という印象を抱いた。



と思ってぼんやりアルバム名と曲名を眺めていたら(基本的に曲名を把握した上で音楽を聴いたりしないタイプ。つまり典型的な曲名が覚えられない人間だ)ラストの曲が「Moonlight」だし、ていうかもっと言えばアルバムタイトルの直訳は「ぼくらの秘密の場所」で、なんとなく自分の感性が冴えてて少し笑った。




その流れでぶつかったのが、9/29だったのだ。




そんなの、もう「Our Secret Spot」を聴きながら散歩するしかないじゃないか。





Our Secret Spot。ぼくらの秘密の場所。
ネットで見つけた、当時このアルバムをリリースした時の細美さんのインタビューで、彼は


「本当の秘密の場所は人に教えるものじゃない」


と語っていた。





ある意味あの時の時間も、私にとってはそうかもしれないな。




生きていると「どうしたって、結局誰とも共有できないものっていうのはあるよな」という気持ちになることがある。昔はそれが悲しいことだと思っていた時期もあったけど、最近少しずつ「他人と共有できっこない、自分しか知らない自分だけの宝物があっていい」と思うようになってきた。



そしてそう思ってもいい、誰とも共有できない、自分だけの宝物を隠れてこっそり持っていてもいいのだと、そうこっそりと、月明かりの下で囁くように教えてくれたのが、私にとって「Our Secret Spot」であり、あの満月の、中秋の名月の夜であったのだ。







いや、ここでそれを言ってる時点で秘密じゃないんじゃない?と言いたくなるかもしれないが、あの夜を「本当の意味で知っている」のは、私と、あの夜に私のことを見下ろしていた満月だけだ。だから、これは私にとって誰とも共有することのできない、とっておきの秘密だ。
(でも、あの夜に私を見下ろしていた満月だけは私のこの秘密を知っているのも、なんだか二人だけの内緒みたいで素敵だろ)




誰とも共有できない、秘密の夜があったっていい。
私はまたきっとそのうち、あの月の下で優しい秘密の夜を過ごすのだろう。



Regrets

Regrets

音楽に救われた夜の話

たまに、感情のコントロールがどうにもこうにも効かなくなる時がある。
まあ大概、そういうときは処方されてる薬をうっかり飲み忘れた日が続いてるとか、そういうダサすぎる初歩的なミスが原因だったりする。


お医者さんで薬を処方してもらって感情のコントロールができるようになる前、感情を乗りこなすのではなくて感情に振り回されている、とにかく本当にダメな感じになることが多かった。暴れた牛の上にしがみついてるどころか、もうほぼ振り落とされる手前ですみたいな感じ。


感情のコントロールが効かなくなった時、もうとにかく全速力で山の奥にでも篭ってしまいたい気持ちを抱えながら、逃げ込むようにイヤホンで耳に蓋をした。本当にダメになってしまった時の最後の砦、駆け込み寺のように飛び込む先。本当にヤバい時に聴く頓服。それがsyrup16gだった。



高校生の頃は、夜中に泣きながら彼らの音楽を聴いて、疲れてそのまま寝てしまう夜が何度もあった。逆に薬を飲み始めて感情がメチャクチャ落ち着いてから、彼らの音楽に逃げ込むことが相対的に減っていった。



でも今、本当に久々にあの時と同じ気持ちで、彼らの音楽で耳に蓋をしている。
別に何があったわけじゃない。ただ薬を飲み忘れた日が数日続いて、感情に振り回されているだけだ。








syrup16g Tour 20th Anniversary “Live Hell-See”



イヤホンから流れる、ギターボーカルである五十嵐隆氏の声を聴きながら、今年の7/6に行っていた、ブログにうっかりまとめそびれていたライブのことを思い出す。


ツアータイトルそのままの通り、そのライブは彼らの「HELL-SEE」というアルバムのリリース20周年記念のライブハウスツアーだった。
あの日は、2018年に地元のライブハウスに来てくれた時ぶりに、彼らのライブに足を運んだんだっけ。コロナ禍を挟んで、およそ5年ぶりの再会だった。



ツアーのセットリストは、アルバムの曲順のまま。
なのに、なんであんなにアルバム音源とは別物の音楽に聴こえたんだろう。


彼らの音楽を知っている人なら分かると思うが、彼らの音楽は、用いるワードの暗さにキャッチーな言葉遊びと音づかいを纏いながら、そのまんま、メチャクチャ暗いのだ。



なのにあの日の「HELL-SEE」は、同じ選曲、同じ曲順、何もかもがアルバムと同じなのに、とんでもなく前向きであたたかく、地に足の着いた、力強い音楽に聴こえたのだ。これまで何度も彼らのライブに足を運んだことはあるが、そんな風に感じたのは、後にも先にもこの日が初めてだった。


それは曲を紡ぎ出す彼らが、もうしっかりと「前」を向いて今を生きるバンドに「為った」という、その証左なのだと、私は思う。
多分もう、かつてのような刹那的な破滅思考で、文字通りステージ上で痛々しいほどに"めちゃくちゃ"になりながら音楽を奏でる彼ら……もとい五十嵐氏はいないのだろう。
……いや、いないというか、それらを全部ひっくるめた上で、バンドとしての彼らが「その先」に進んだというか。



なんかそれって、たぶん本当の「強さ」な気もするんだよな。




2022年11月にリリースされた彼らの新譜「Les Misé blue」も、生きている中で生まれるどうしようもない悲しさとかどう足掻いても拭い去れない絶望の中に、それでも確かに「ひとの中で生きていくことの喜び」や「誰かとともに生きていく希望」が存在しているような気がして、なんだかそれを彼らがこうして音楽にするということが、どうしようもなく救いのように感じられるのだ。




20年前に発表されたアルバムと、全く同じセットリストのアルバムリリース記念ツアー。そのセミファイナル公演の、しかもその終盤で、ドラマーの中畑氏がツアーに対して「演るほどどんどん良くなっていってる」と話していたのが、とても印象的だった。
本当に、こんな言葉でしか形容できないことが本当に悔しいけど、本当にあまりにその通りで、どうしようもなく良かったんだよな。



「ライブは生もの」とは、本当によく言ったものだ。何度アルバム音源のHELL-SEEを擦るように聴いたって、「あの夜だけに存在した、あの質感のHELL-SEE」では、一切ないのだ。「あの夜のHELL-SEE」は、ライブに足を運んだものの、記憶とこころの中にしかない。




「もうヘロヘロです」と言いながら本当に笑っちゃいそうなくらいヘロヘロそうで、でもそれと同じぐらい、本当に嬉しそうな顔で楽しそうにギターを奏で歌う、五十嵐氏の姿。


「月になって」と「パレード」を歌うその姿があまりに美しくて、網膜に今でも焼き付いている。




そしてダブルアンコのラスト曲を演奏し終わり、捌ける直前の「ばいばいまたね」という五十嵐氏のその一言が、いつか彼らと再び会う時までのおまじないのようだと、勝手にそう感じた。




こうやってあの夜のことを思い出しながらこの文章を書いていたら、「まあ、syrup16gもこう言ってるし、まだ投げ出すには早いっしょ」と、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。




「救済は無理か 音楽ですら
 ロックンロールの成分は自己愛かい」



そう彼らは歌うけど、多分こういう夜のことを「音楽に救われた夜」って言ってもいいと、私は思うんだよな。それが自己愛だとしてもさ。


HELL-SEE

HELL-SEE

夏が終わった話


夏が終わった。まだ暑い日は続くじゃねえかというが、そういう意味ではない。「私の夏」が、8/31に終わった。



8/12のあの日、約15年の時を経てELLEGARDENにようやく会えたこと。
冬からずっと一緒に走り続けたTHE FIRST SLAM DUNKが、8/31に終映したこと。



ただそれだけだが、これまでの時間を含めた「ただそれだけ」が、私の中でどうしようもなく輝く、かけがえのない時間だった。



8/31の夜は、ELLEGARDENのサマーパーティに行く夢を見た。そのまま目を覚ますと9/1だった。目が覚めてあー夢だったか、とぼんやり思った。どれだけ今年の夏に去ってほしくなかったのか。夢は深層心理をよく表すもんだ。



その日はおもしろいほどに仕事を含む生活のリズムがズレまくった。まだあまり夏が終わったことに体が慣れていないらしく、モロに影響を受けてて笑った。




翌日、9/2の朝は、呆然としながらコーヒーを淹れた。コーヒーをずるずる啜りながら、やっと「ああそうか、私の夏が終わったのだ」という事実が現実に追いついてきて、少しだけ泣いた。




その日のツイートを読み返すと、




「朝起きてもちゃんと、夏が終わったことがさみしくて涙が出て、でもそれがうれしい」


そんなことを書いていた。





さみしいと感じられることが嬉しい。
人間の、入れ子状になった感情の層は複雑だなと思う。複雑だけど、でも私にとってはそれが全部だ。






季節が終わることがさみしいと感じられて、その上泣く経験なんて今までなかったので、こんな歳でそれを経験できた私は幸せ者だなあと思う。



自分で言うのもアレだが、終わるのがさみしくて泣くほどの季節を過ごせたことは、多分けっこう、人生にとってのすてきな財産だと思う。
学生時代の夏休みが終わった時だって、こんなに悲しかった記憶はない。




この夏は、嬉しすぎて泣く経験をたくさんした。

特に去年は悲しくて、さみしくて泣く経験ばかりしていたし、そのさみしさに対して喜びを感じられることも、特にはなかった。

あの時はただたださみしくて、悲しかったもんな。




嬉しすぎて泣くという経験ができたのは、本当にすごいことだと思うな。シンプルに。
私はこの人生であとどれだけ、そんな泣き方ができるのだろう。




夏は終わった。終わったことはさみしいが、でも不思議と、あの夏を失った感覚はない。
終わったけど失ってない。あの夏は今でも、多分これからもきっと、私の中にある。


Perfect Summer

Perfect Summer