鯛が「今この瞬間」について話す

魚類が自分にとって大切な「今この瞬間」を書き残す

文章を書くのが楽しい。

いやいうてもまだ書き始めて数日しか経ってないのだが。


これまで、自分の思いや感情を文章にするというような、目に見えないものに何らかの形を付与することに、さほど重要性を感じていなかった。思いをどれだけ言葉にしても、自分の感情の本質を的確に射ることは難しく、言葉にすればするほどその本質から遠ざかるような気がしていたからだ。

というか今でもその考えは全く変わっていないのだが、しかしこうして文章を書き始めたことにより、今まで目に見えないものであった自分の思いや感情、特に自分の好きなものについての思いや感情を、こうして目に見える形で認識できることに思いの外自分自身が喜んでいる。お前は今まで見えなかったものが急に見えるようになって喜ぶ赤ちゃんか。

恐らく現時点でこのブログのカウンターを一番回しているのは私である。一人で勝手にブログを書いて、一人で勝手に喜んでいる。自家発電もいいところすぎて、もしかしたら地球温暖化にも何らかの効果があるかもしれない。ねーわ。


話はいきなり飛ぶが、もしも自分と仲のいい感情はどれですか、と聞かれたら、私は多分悲しみだと答えると思う。
私はよく無意味に悲しがる。正直無意味に悲しがることほど無意味で生産性のないことはないのでさっさとやめろと思うのだが、しかし悲しくなってしまうもんは仕方ないので、そのうち疲れて飽きるまではとりあえず悲しがることにしている。


当たり前のことだが、人は常に一人である。それが希望でもあれば絶望でもあるような気がする。私はどちらとも感じたことがある。


音楽や漫画や映画やアニメ、料理や器。まぁなんでもいい。私は何かそういう、人の作り出したものに触れた時にふと「あぁ、一人じゃないな」と感じる瞬間がある。それは自分が勝手に感じているだけの思い込みに過ぎないのだが、でもその思い込みをいとおしいと私は感じるし、そう感じる瞬間があることに安心し、勝手に救われることがある。
人は、とすると主語がデカすぎるので私は、とスモール主語でまとめるが、もしかしたら私はその「あぁ、一人じゃないな」を感じるために、何かを必要として、好きでいるのかもしれない。


なんだか、「好き」という感情は、「自分」と「外の世界」を繋ぐ心のありようのような気がする。
好きの反対は無関心という言葉があるが、無関心は、「外の世界」に対して関心を持たないことであるような気がする。
何かに対して心を揺らすことは、それだけで「自分以外の、外の世界の何か」に興味を持っていることだと思うし、その「好き」の感情に強弱こそあれど、それを一切持たないことは、なんとなくだが、ただ単純に生きることよりも多分、難しいんじゃないかという気がする。


それがプラスの感情であれマイナスの感情であれ、何物(何者)にも興味を持たずに生きている人はいるのだろうか。生きているだけで他者という存在は少なからず自分の生に干渉してくる。ていうかそもそも、人間は人間から生まれてくる時点で他者からの干渉は100%避けられない。人と人が存在するだけで、そこに小さな社会が発生する。
人はどこまで行ってもひとりぼっちだ。他者の存在が避けられない限り、どこまで行ってもそこに断絶は存在するし、その「ひとりぼっち」を埋める術はどこにもない。
うーん、なんだか旧劇エヴァみたいな話になってきたぞ。


だんだん飽きてきたのでまとめるが、まあなんていうか、「好き」はその「ひとりぼっち」の断絶を、ほんの少しだけ「あぁ、一人じゃないな」に変えてくれるもののような気がするのだ。
なんていうのか……「好き」は自分の内側ではなく外側に向いた、社会的な感情であるような気がする。


私は何かの専門家でも何でもないので、この話には何の根拠もないし、ただ自分がそう思ってるだけなのだが。でもなんとなく、「好き」を集めてみることに思いの外楽しみを感じているのはそういうことなのかもしれない、と思ったので、とりあえずこうしてブログという形にしてまとめておくことにする。